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こうしてブランドへ変わった 瀬戸の“型屋”の挑戦

インタビュー記事

創業60年以上──“型屋”として生きてきた会社

昭和34年の創業以来、株式会社エムエムヨシハシは一貫して陶磁器の石膏型づくりを担い、瀬戸・美濃の産地を根から支えてきた“型屋”だ。
分業制が成熟した産地において、製品を生産するための「型」は欠かせない存在。
長い歴史のなかでも、型屋が自社商品をつくる例は極めて珍しい。

それでも、平成20年ごろから陶磁器製品の企画・卸売に踏み出し、翌年には自社ブランド「彫付(HORITSUKE)」を立ち上げた。
その背景には、現代表・吉橋賢一さんが抱えていた静かな想いがある。

「いつか、自分たちの技術で、自分たちの商品をつくってみたい。」

しかし「どう作り、どう販売するのか」。
その方法はまったく分からなかった。
まさに転換点に立っていたそのとき、セメントとの出会いが訪れる。

セメントとの出会い──偶然の紹介が「はじまり」になった

もともと吉橋さんは、デザイン会社に依頼するつもりはなかった。
名古屋のインテリアショップの社長と話している中で、
ふと「紹介したいデザイン会社がある」と言われたことが、すべてのスタートになった。

紹介されたのが、弊社代表の金谷だった。
最初、吉橋さんが見せたのは、イタリアのシンプルな器を参考につくったパスタ皿。
どう売ればいいか相談したところ、金谷の返答はこうだった。

「これだと他にも似た商品がある。
自分の技術や強みを活かすやり方がいいのでは。」

その一言が、新しい商品づくりの方向を決定づけた。
当時を振り返り、吉橋さんは言う。

「販売経験もなく、“どう世に出すか”の感覚がまったくなかった。だからこそ、あの出会いは必要だった。」

“型”のないやり方だったから生まれたモノ

最初の協業は「Perch Cup」から始まった。

セメントから「こんなのできますか?」という話が来たら、原型をつくって見せる。
この往復で、プロトタイプが形になっていった。

続く「Trace Face」も、細かな指示を基にするのではなく、模様づくりは吉橋さんの技術に委ねられた。
まさに二人三脚の開発だったが、吉橋さんにとってはこの“曖昧さ”こそが良かったという。

「ザ・デザイン会社のような進め方をされていたら、
当時の自分はついていけなかったと思う。」焼き物業界とデザイン業界では、常識や前提がまったく違う。
その間には、いまでも“翻訳”が必要なほど大きな溝がある。
だからこそ、この頃の信頼で成り立つ関係性が、独自の表現を生む土壌になった。

業界のしがらみ──反発の中で揺らがなかった“吉橋賢一という人”

新しい挑戦は、同時に厳しい現実も運んできた。
『ガイアの夜明け』に出演した際、ある問屋からは「何を勝手にやっているんだ」と言われた。
産地では今なお、
「型屋はあくまで下請け」「自社ブランドを出すべきではない」
という空気が根強く残っている。
役割が明確に固定化された伝統産地では、異なる動きは反発を招きやすい。

それでも吉橋さんは、怒りをぶつけるでもなく、戦うでもなく、
ただ“自分がやれること”を積み重ねていった。

「新しいことをやり出す人のことを悪く言う人はいる。
でも、戦う必要はない。
価値観が合う人が現れるまで、自分のやることを続けるだけ。」

この姿勢には理由がある。

吉橋さんは、中学・高校とバレーボールに打ち込んだ。
チームスポーツ特有の 「自分ひとりの力では勝てない」 という感覚が早い時期から身体に染み込んでいる。

高校では、本人曰く「柄じゃないのに」キャプテンに指名された。
はじめは、チームメンバーが言うことを聞いてくれなかった。

しかし、対立するのではなく、
自分自身がメンバーの一員としてやれることを一生懸命にコツコツと取り組み続けた。
すると、徐々にチーム内の関係性が変わり、最終的に大会でも結果を残せた。

「誰かと何かをやりたいと思ったら、その誰かが現れるのを待つ。」

それは受け身でもなく、一匹狼的な考えでもない。
自分の状態や行動が整えば、必要な人は必ず現れる
という、吉橋さん独自の実感値に基づいている。

こうした背景があるからこそ、
“型屋がブランドを持つ”という異例の挑戦に対して反発があっても、
吉橋さんの軸が揺らぐことはなかった。否定する人とは無理に組まない。
理解してくれる人と丁寧に積み重ねる。
そのスタンスを 10年以上続けるうちに、少しずつ、しかし確実に協力者が増えていった。

セメントとの協業がもたらした“意識の変化”

セメントとの仕事で最も大きかった変化は、
「エムエムヨシハシという名を、前に出してもいい」と思えるようになったこと。

当初は、会社名を商品につけることに迷いがあった。
しかし金谷からの
「自社の技術でつくっているのだから、名乗るべきだ」
という言葉が、背中を押した。

その一歩が、やがてさまざまな変化をもたらす。

  • 地元での認知が上がった
  • 「ここで働きたい」声が届くようになった
  • 仕事の話が入ってくるようになった

“型屋”から“ブランドを持つ会社”へ。
その確かな変化の手応えが生まれていった。

そして、吉橋さん自身にとっても、セメントとの協業は大きな学びになっている。

「金谷さんと話すと常に刺激がある。自分もアップデートされる感覚があります。」

挑戦を続けられる理由──「間違っていても、動く」

取材の最後、吉橋さんは静かにこう語った。

「間違っていても、とにかく動く。
動き続けること、継続することが一番大切。」

これは、自社ブランドを立ち上げた時も、業界の壁とぶつかった時も、セメントと共に新しい表現に挑んだ時も、すべてに共通している姿勢だ。

そしてもう一つ、大切にしていることがある。

「人との出会いを大切にする。そこから全部が変わるから。」

吉橋さんとセメントの出会いは、その象徴でもある。
“型屋”の挑戦は、これからも静かに、しかし確実に前へ進んでいく。

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